序 章_ の「神話」と「古代史」がよくわかる本_走进

admin2025-02-21  5

序 章_      の「神話」と「古代史」がよくわかる本_走进

序 章_ の「神話」と「古代史」がよくわかる本_走进
序 章
 
 実を定めて、後葉に伝えん
  『古事記』『 書紀』とは何か?
『古事記』と『 書紀』
 神話の時代と歴史をつなぐ 最古の歴史書と正史
◆『古事記』と『 書紀』はなぜ存在するのか?
 神々と 国土の誕生から、天皇家の成立に至る壮大な 神話の世界と、天皇家によ
る国土統一の歴史を記す書物が、『古こ事じ記き』と『日に本ほん書しよ紀き』である。
 奈良時代の初め、七一二(和わ銅どう五)年に 最古の歴史書『古事記』が完成。そ
れから遅れること八年、七二〇(養よう老ろう四)年には『 書紀』が編纂を終え、
上された。両書は、 の古代史を研究するうえで、欠かせない貴重な資料でもある。
 両書の編纂が始まったのは、七世紀末の天てん武む天皇の時代のこととされる。
 まず『古事記』ではその編纂の経緯が序文に記されており、それによると、天皇家の記
録である『帝てい紀き』と豪族の伝承である『旧きゆう辞じ』に偽りが多いことを憂えた
天武天皇が「実を定めて、後葉に伝えん」と、それらを正しく定めて、稗ひえ田だの阿あ
礼れという人物に誦よみ習わせた。その後、八世紀初頭の元げん明めい天皇の時代に、阿
礼が覚えた内容を太おおの安やす万ま侶ろが筆録、書物に編纂して、元明天皇に献上した
という。
 一方の『 書紀』に序文はなく、天地の始まりから記述を始めている。その編纂開始
時期は『古事記』より早い六八一年で、当の『 書紀』に、天武天皇から下った編纂の
勅ちよく命めいが記されている。『古事記』同様、やはり天武天皇が川かわ島しまの皇み
子こら六人の皇族と、中なか臣とみの連むらじ大おお嶋じまら六人の官人らに命じて、編
纂にあたらせたとされる。こちらはその後、約四十年の時を経て完成した。
◆扱いの異なる の神話
 そんな両書の編纂の目的は、過去に遡さかのぼって、天皇家による 支配の正統性を
明らかにすることにあった。当時は、大和朝廷が天皇を中心とした中央集権国家の確立を
推し進めていた時代であり、頂点に立つ天皇が を支配する根拠を示す必要に迫られて
いたのである。
 その意図のもとで編纂された両書は、大筋ではほぼ同じ内容である。ならば同時期にな
ぜ二書も編まれたのかという疑問も生じる。
 そのため、先に完成した『古事記』については、後世に作られた偽ぎ書しよであるとい
う説まで飛び出した。あとにできた『 書紀』に『古事記』のことがひと言も触れられ
ていないのが大きな理由だという。
 ただし、二書は性質の異なる面も持っていた。すなわち、『古事記』が天皇家の系譜や
伝承を伝え、国土支配の正統性を強調する面を持つ一方、『 書紀』は、国の歴史を記
し、かつ海外にも通用する正史としての性格も帯びていたということだ。
 その性格の違いは内容にも見える。『古事記』は、『帝紀』『旧辞』のみを史料とし、
神しん代だいから推すい古こ天皇までを上中下の三巻にまとめているが、神話部分がその
うちの約三分の一を占めている。
 また、天皇家は高たか天あまの原はらの最高神アマテラスオホミカミの系譜に位置づけ
られるとともに、天皇家の周辺にある氏族は、アマテラスを取り巻く神々や、古代天皇の
皇子などの系譜上に位置づけられ、統括者である天皇に臣従する存在である根拠を示して
いる。いわば、『古事記』は天皇家の私史としての色合いが強い。
 一方の『 書紀』では全三〇巻のうち、神話は神しん代だい紀きの上下二巻にすぎな
い。大和に天皇家が成立する以前の神話が多くの分量を占め、物語中に歌謡をふんだんに
用いて語られる『古事記』に対して、『 書紀』はあくまで事実のみを淡々と記す。ま
た、『帝紀』『旧辞』のみならず、中国や朝鮮といった外国の史料を収集し、異伝をも収
録する客観的姿勢をうかがわせる。
 こうして、大筋では同じ内容ながら、国内向け、国外向けというそれぞれ別の使命を
持った歴史書『古事記』と、正史『 書紀』がともに奈良時代に編纂されたのである。
「記紀」を生んだ人々
 「記紀」に見られる編纂者たちの苦悩と努力
◆独自の文体で記述される『古事記』
『古事記』と『 書紀』の両書は、あわせて「記紀」とも呼び称されるが、それぞれの
目的に応じて、編纂者、編纂方法ばかりか文体も大きく異なっている。
 まず『古事記』は、舎人とねりの稗田阿礼が暗誦した『帝紀』『旧辞』の内容を、太安
万侶が筆録して編纂されたものである。稗田阿礼の人物像はほとんど不明で、唯一アメノ
ウズメという女神の後こう裔えい猿さる女め氏を出自とするという記録があるのみであ
る。
 編纂者の太安万侶は、優れた学者として知られると同時に、雅楽を司る家柄だった。か
つては実在さえも疑われ、『古事記』偽書説の根拠とされていたが、一九七九(昭和五十
四)年に墓誌が発見され、実在が証明された。
 彼はただ編纂にあたるだけでなく、画期的な記述法を生み出している。『古事記』の文
体は、漢字の音と 語の訓とを混ぜた漢文体という特殊な形式を採用しているが、これ
は独自の文字を持たず、漢文を用いていた において、 語が持つ「響き」を正確に
伝えるために安万侶が苦心して生み出した特殊な形態である。
◆多くの官人が携わった『 書紀』の編纂
 一方の『 書紀』は、天武天皇の皇子、川島皇子や刑おさか部べ親しん王のうら六人
の皇こう親しんと、中臣連大嶋ら六人の官人の計一二名が命を受けて、編纂に取り掛かっ
た。その後約四十年を経て、舎人親王が元正天皇に 上したとされているが、『古事記』
のような序文もなく、編纂に関わった人々ひとりひとりの名は明らかになっていない。
 ただ、表記などの統一が巻によって異なる箇所があるため、編纂作業は多くの官人が巻
ごとにグループを組んで分業で行なったと考えられている。そのなかには太安万侶もいた
といわれる。また、紀きの清きよ人ひとと同じく首おびとの皇み子こ(のちの聖武天皇)
に帝王教育を施した山やま田だ史ふみと御み方かた、楽さざ浪なみの河内こうち、刀と利
りの宣せん令りようら渡と来らい人じんの名も挙がっている。国家的事業だけあって、当
代一流の人々の手による作業だったといえよう。
 海外にも通用する正史としての性格上、こうした渡来系の人々の技術を活用したと考え
られ、『 書紀』は中国の国史に倣ならった漢文で書かれている。
 さらに当時の権力者藤ふじ原わらの不ふ比ひ等とも影響力を発揮していた。のちに藤原
氏が記した『藤原家伝』の「鎌かま足たり伝」と『 書紀』には内容、文章において類
似部分が多く、同じ原史料を参考にした可能性が強い。藤原鎌足の活躍を明記すること
で、藤原氏の権威を示したのだろう。先の三人の渡来人も藤原氏と関係が深かったようで
ある。
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